2008年8月15日 (金)

観念について

人は無意識の中にも

固定観念を形成しているものです。

私自身そのことにはじめて気づいたのは

学生時代、発展途上国やイスラム圏を訪れたときです。

一番のカルチャーショックだったのは

イスラム圏には約束の概念がないということです。

ちょっと語弊のある言い方かもしれません。

人と人との間には約束や契約が結ばれないという考え方です。

そこでは約束や契約は人と神の間で成立します。

なにか約束をしようとしたときには、

必ずその後に「シャー アラー」つまり

「アラーの神がそうさせるのであれば」という

決まり文句をつけます。

例えば「明日の6時にモスクの前で待ち合わせましょう」

と約束をしようとすると、その後に互いに

「神がそうさせるのであれば」と付け加えるのです。

一見無責任な考え方に思われ、

はじめはもちろん違和感がありましたが、

よくよく考えてみると合理的な側面もあります。

つまり、人には人の未来を束縛する権利はない

という意味を持っているのです。

そして神への信仰で結ばれている彼らにとっては

そういった考え方が相手に対するより高い信頼に

つながっていると考えられるのです。

約束や契約が基本のキリスト教的文化圏であれば

約束を守れば信用され

約束を破れば信用されない

ときとして、罪に問われ罰せられます。

しかしながら、イスラム圏ではそもそも

人と人との間の約束・契約が認められないわけですから

約束が守られた場合でも

約束が破られた場合でも

相手を信頼することに変わりはないのです。

むしろ約束が守られなかった場合

相手を心配するという慈しみの心を育みます。

思い返してみれば

我々だって、家族や親友の間柄であれば

そういった感覚をもつことでしょう。

駆け引きや損得のない結びつきなのです。

彼らは我々が他人と呼んでいる初めて出会う人々ですら

信仰で結ばれた兄弟のように思っているのでしょう。

とかく契約や計画の履行という呪縛に

囚われている私たちにとって、

こうした違った考え方があることを知ることも

大切だと思うのです。

固定観念をそうしたカルチャーショックの振るいにかけて

その上でその観念のもっている特長や

違った考え方のあることを理解した上で

自分の生活に取り入れていけばいいのではないでしょうか。

   

観念に囚われず、様々な多様性を知ることは

人間としての度量の大きさ、

優しさにつながるのです。

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自己実現

僕は人材育成や能力開発の仕事をしているため

自分自身もいろいろな研修やセミナーを受講してきました。

そこで目標となるテーマが自己実現です。

僕も自己実現について研鑽を積んで、

もちろん今でも完全な訳では全くなく、

きっと人生を通して精進していかなければならないのですが、

多くの人が自己実現という言葉を

理解していない、もしくは

誤解していることに気づきます。

すなわち、自己実現と自己顕示欲とを

混同している人をよく見かけるのです。

マズローの階層説でいうならば、

自己実現のニーズは

自我のニーズが満たされた上に現れてきます。

つまり、自我を超えた真・善・美の追求や

損得を超えた心の満ち足りた状態における

行動の中に現れるものなのです。

多くの人が自己実現に関して

例えばDo,  Have,  Be

「何がしたい」「あれが欲しい」「こうなりたい」

みたいなもので偶像化してしまいます。

これらは満たされない自我の欲求の

不足感の補完でしかありません。

自己を超越して

自己以外のものに愛しみを感じ

見返りを求めず与える

自己表現の心が芽生えたとき

自己実現の心の状態は

自ずと現れてくるものなのです。

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自分とは何か

二十歳前後の頃よく自分とは何かを考えました。

今考えればおそらく学生時代の終わりの頃であり

社会人にこれからなろうとする頃

ようやく自立心が芽生えたのかもしれません。

高度経済成長時代に親に育てられ、

親離れを始めた青春期には

日本はバブル景気の波に乗っていました。

その頃は自立心なんてものを意識しなくても

何不自由なく、きっと自分の力以上に成長でき、

豊かな未来がやってくるという

錯覚や誤解に包まれていたのでしょう。

二十歳を過ぎた頃バブルは弾け、

ようやく我に返り、魂が自立心を求めたのかもしれません。

その頃は自分の欲に任せ、

それを満たすことが自己の確立につながるものと誤解していました。

欲は未熟な欲望であるとともに

自分を形作るための意欲でもあったのです。

しかし、一つ一つの欲望を満たしていっても

それは一瞬の快楽に過ぎず、

何か空しく、満足感などは得られませんでした。

二十代も後半にはいり、

“自分”に関する安岡正篤先生の言葉に出逢いました。

「自分とは、ある者が独自に存在すると同時に、

また全体の部分として存在する。

自分の自の方は独自に存在する、

自分の分の方は全体の部分である。

この円満無碍なる一致を表現して「自分」という。」

この言葉にはっと気づきを得ました。

それまでは恥ずかしながら

自己中心的な発想しか自分にはなかったのです。

自分が全体の中の部分といった感覚は

私にはなかった。

この言葉との出逢いをきっかけに、

何か社会に対して、人に対して

自分にできることはないだろうかと

上辺ではなく心のより深い部分から

考えるようになりました。

そして宇宙の中でたった一人の自分を

心底愛おしく感じることもできたのです。

与えられた自分の人生を

大切に過ごさなければならないと想い知りました。

それと同時に親、家族、友人、同僚・・・

周囲のたくさんの人たちに

感謝の念が沸いてくるのです。

現在に至るまで

その気持ちに従った

満足のいく生活、行動が

できているわけではないけれども、

ただこの「自」と「分」からなる

「自分」というものを

体感できたことが

私の人生を通して

非常に大切な契機となったことは

間違いないでしょう。

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2006年4月12日 (水)

生きるということ

生きるということはどういうことだろうか。

人は誰でも影響を受けて生きています。一つは環境。生まれ落ちた父母、先天的な性もあるでしょう。家庭環境、地域、教育、学校、友人、仕事、会社、・・・国・・・そんな環境の影響でその人の人生は大きく左右されてしまいます。

もう一つは習慣です。自分でも気づかなくなってしまうくらい身についた習慣というものは、人生に大きな影響を与えます。個人的に身に付けた習慣や環境から受ける慣習、因襲、常識・・・そんなものもあるでしょう。そういった習慣に人はとかく流されやすく、多くの時機を惰性、慣性で過ごしてしまいます。

では人は外から影響を受けて生きるだけなのでしょうか。もちろんそうではありません。他の誰でもない自分自身というものがあるはずです。人が生きる上で大切なのは自分自身が自分自身に与える影響、ときとして自分以外の他や環境に発して与える影響といったものだと想います。

意志であるとか創造力であるとか・・・そういった主体的な行動、言動、活動・・・そういったものが他の誰でもない自分自身の人生を表現し、創り上げていくのでしょう。

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2006年3月31日 (金)

一番大切なこと

論語の一節。

子貢問いて曰く「一言にして以って終身これを行う可きものありや」
子曰く「それ恕か。己の欲せざる所は人に施すなかれ」

解説:子貢は先生に聞きました「生涯守るべき事とは一言で言うと何なのでしょう?」孔子は答えました「それは恕(寛大さ)だ。自分が好まないものは他人にも押しつけてはならない」

恕(じょ )とは、思いやること。思いやり。同情。寛大さ。優しさ。

人間にとって最も大切なこと。それは優しさではないでしょうか。そう想います。

「己れの欲せざる所を人に施す勿れとは…之を恕の道と云ふ/福翁百話(諭吉)」

人生を通して、学び、体験し、仕事をし、生活をし・・・ 強く、たくましくなって、そうしてこの”恕” 思いやりの気持ちを深く深く持ちたいものです。

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2006年3月20日 (月)

人生の意味

国民教育の父、森信三先生の言葉に「天からの封書」というものがあります。

「天からの封書」

 われわれ人間は、おたがいに「天の封書」をいただいて、この世に生まれ出ております。そこにはそれぞれ自分がこの世に派遣せられた使命の内容が書き込まれております。少なくとも四十歳までに、天から拝戴した封書を自ら開封し、しっかり読みとらねばなりません。 

 与えられた天からの使命を読みとるか否かが、その後の人生の生き方において雲泥の差が生ずることは、いうまでもありません。思えばなんと天の封書を読まずに人生を終える人の多きことよ。 

本当の自分の人生とはこの”天の封書”を開いたときからはじまるのではないでしょうか。孔子も三十歳を”而立”、四十歳を”不惑”としています。青年期の総仕上げのこの時機に、独り自らの人生について指針を持つこと。そういったことが人を生きる上で、大切だと想います。

そうしなければ折角いただいた命でありながら、人ではないものとして生きてしまうのではないでしょうか。

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2006年3月14日 (火)

幸福論

幸福とは何か?そんなことを何年も考えてきました。そして得られたことは、”感謝”と”知足”の心をもつことです。仏教の考えでは人が幸福になれない理由として、執着心と虚栄心をあげているようですが、”感謝”と”知足”の心はその対義語といえると想います。簡単にいえば、”現在”の自分を能動的・主体的に受け入れている状態を言うのではないでしょうか。

また、もう一つの大事な心のもち様として、”利他の精神”もあげられるのではないかと想います。人の喜びをも自分の喜びとする精神。もし、そういう心をもてたとするならば、執着心や虚栄心は出てこないのではないでしょうか。

辞書をひらけば、幸福とは

 満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。

などとでできます。また、ちがった観点で幸福という字を分解すると、

 幸とは外からもたらされるもの。福とは自分や家庭の内から湧き出るもの。

そういった説明もあります。他力的な部分と、自力的な部分のバランス。心の安定や調和の取れた状態と言えるのではないでしょうか。

また、幸福や喜びには三段階あるとも言われます。

 1.もらう喜び・受け取る幸福

 2.できる喜び・達成する幸福

 3.あげる喜び・与える幸福

倫理説では幸福主義というものがあります。幸福が人生の目的であり、善であるとするものです。快楽主義が感覚的な快楽を求めるのに対し、幸福主義は持続的な、精神的な喜びをもとめるものです。幸福と快楽、改めて確認してみるとその違いに気がつきますが、普段は無意識に混同してしまっているような気がします。

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2006年3月 9日 (木)

人間の本質

僕は能力開発の仕事、研究をしてきました。そして一つの結論として、”能力開発とは愛情開発である”という確信を得ました。

能力開発をはじめるに当たって一番大切なことは、本心開発です。自分が自分のことをどれくらい理解しているのか、自己同一性とでもいいましょうか。そういったことが大切です。能力を開発する方向として自分の内にある原型に向かって進んでいくのと、自分ではない何か他の偶像に向かっていくのとでは、進んでいくにつれて大きな差が生じてしまいます。

ですからまず、自分というものを理解しなければいけません。自分の過去、大過去(英語でならいませんでした?過去完了ともいいましたね)を振り返り、様々な経験の因果関係、因縁を理解していく。そして現在の自分がどんなで、なにを想い、感じているのかを、純粋に素直になって捉えていく。そして、自分は未来にどうなりたいのか、つなげていく。そうして得た自分の本心に触れない限り、能力開発は幸(功)を奏しません。

そうやって自己理解を掘り下げていくと、不思議と本心というものは誰でも同じような方向に導かれている。そう感じます。その中心を”愛情”と言葉上表現しておきます。ギリシャ時代で言うエーロスとかアガペーとかそういったものなのでしょう。

よく、性善説とか性悪説とかいいますが、あえて造語をすると”性愛説”といった立場を僕はとっています。生まれながらにして人間は皆愛ある存在だと想うからです。病院の新生児室で赤ん坊たちが泣いたり、眠ったりしているのを見たことがありますか?(まだ言葉を話せないくらいの)幼い子供たちが公園の砂場で遊んでいるのを見たことがありますか?

僕は何か人との間でトラブルがあったり、ストレスを感じたりしたときは、その人の赤ちゃんの頃や幼少の頃を想像したりしています。そうするとネガティブな感情(不満や不安など)が和らいでくるのです。

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2006年2月19日 (日)

誕生

”自分が生まれてきた理由”を探していた頃、少なくとも一つの回答に導かれました。それは自分が生まれてきたのは他の誰でもなく、”自分が生まれたかったから”といものです。僕自身の意志、本能によって生まれてきたという確信でした。

父や母の意志や本能ではなく、僕自身の意志が父や母を動かし、父や母を利用してこの世に生まれることができた。何かそういう確信を得たのでした。僕たちは生まれてくるまでに何億という他のライバルたちとの競争を勝ち抜いています。何億という精子の中で人間としての生命を得るのはたった1つなのです(双子の場合は2つ)。

この自分の乗り越えてきた偉大な実績を経て、僕らは人間としての存在を手に入れたのです。何億というライバルたちに勝った結果の存在という自分の生命の尊さを感じます。そして、自分の意志や本能が主体的に選んで自分という存在を成立させたという確信は、両親や環境に対する恩義や感謝の念を湧き起こさせてくれます。

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2005年7月 7日 (木)

はじめに

昨年(2005)からSNSやB-log、メルマガをはじめてみました。少しずつ自分の考えていることを記録していこうと想っています。

僕は東京に生まれ、環境や友人に恵まれ、幼い頃を過ごしてきました。友人達との比較の中で、”自分”というものを捉えて。負けず嫌いで、スポーツも勉強も頑張って、恋もして、自分なりに何か一所懸命でした。少年期、青年期といろいろありながらも、当たり前のように進学して、当たり前のように就職していきます。少しでも”良いところ”へと(他人の目から見て、又は周りのみんながそうしているように)。

大学時代以降20代前半、世界中を旅する機会に恵まれました。東西ヨーロッパ、中東、アフリカ、アジア、南米、中米・・・。はじめて発展途上地域を訪れたときのカルチャーショックは、今の僕の人生を大きく左右しています。物乞いをしやすくするために、親が自分の子の腕や足を切断したり、そんな地域もありました。学校に行って勉強したくても、家計を助けるために、その願いが叶わない子供たちが大勢いることも目の当たりにしました。

自分が如何に恵まれているのか、日本という国に生まれ、両親に育てられ、姉妹や友人や・・・。感謝の念とともに、ある想いが湧いてきました。恵まれている人間と自覚したからには、何かやらねばならないことがあるのではないか。

本当の豊かさとは何か。幸福とは何か。こんな自分にも何かできることはないか。何かしなければいけないのではないか。自分は何のために生まれてきたのか。自分の生きる意味は。

そんなことを探し求めて、いろいろな経験をしました。試行錯誤や七転八起の繰り返しで、大きな間違い、失敗、挫折を重ねて、誰かに迷惑をかけたり、助けられたり。それでもなお、今もその道を歩いている。そんな感じです。振り返ってみると、何かに導かれ、生かされているような気もします。

社会人になって暫くしてからは”経営”にたずさわる仕事をしてきました。人・物・金・情報・・・その本質は何かをつねづね考え、仕事をしてきました。そんな中でも、世の中の矛盾や不公平みたいなことに純粋に”疑問”を抱いていました。

2000年長男が生まれ、僕も父親になりました。新しい自分の人生の価値観が芽吹き、それ以来、”子供達に素敵な未来社会をプレゼントする”という人生理念を掲げ、仕事や生活、地域の社会活動に取り組んでいこうと決意しました。

そんな半生の中で邂逅した言葉たちをこのブログではまとめていきたい。そう考えています。そしてこれからも多くの言葉たちと出逢いながら、僕の人生は続いていくんだろう。

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