名言集882
他人に対してもっとやさしく、
もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。
他人のために自分を忘れること、
そうすればその人たちも
あなたを思い出してくれます。
自分も生き、他人をも生かすようにする
これがわたしの信条です!
堪え忍べ、働け、祈れ、
そしてつねに希望を持て
これがわたしが全人類に
一度に吹き込もうと願っている
真理なのです!
(フョードル・ドストエフスキー)
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他人に対してもっとやさしく、
もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。
他人のために自分を忘れること、
そうすればその人たちも
あなたを思い出してくれます。
自分も生き、他人をも生かすようにする
これがわたしの信条です!
堪え忍べ、働け、祈れ、
そしてつねに希望を持て
これがわたしが全人類に
一度に吹き込もうと願っている
真理なのです!
(フョードル・ドストエフスキー)
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真贄(しんし)の隣に熱意なる者あり。
人性の中に若(も)し
「熱意」なる原素を取去らば、
詩人といふ職業は今日の栄誉を
荷(にな)ふこと能はざるべし。
すべての情感の底に「熱意」あり。
すべての事業の底に熱意あり。
凡(すべ)ての愛情の底に熱意あり。
若しヒユーマニチーの中に
「熱意」なるもの無かりせば、
恐らく人間は歴史なき
他の四足動物の如くなりしなるべし。
(北村透谷「熱意」)
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僕の信仰観、宗教観について告白しておこうと想う。現時点での。もうすぐ43歳、後厄も終え、そろそろそういうことを告白しても良いかなと想う。
とはいうものの、僕は実は特定の宗教を信仰してはいない。むしろ特定の宗教を信仰したり、宗派に属したりすることを個人的に好まない。ただ、そうした人を否定したり、拒んだりもしない。僕は僕として、神だとか、幸福だとか、真理だとか、そういったものを考えたいと想っている。
アインシュタインが「存在するものの秩序ある調和の中に自らを現すスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない」と云ったそうだが、それに近い感覚だと想う。
僕は生まれも育ちも東京だが、僕の宗教的背景は、生家が黒住教という宗派だったことも影響しているかと思う。ただ祖父も熱心な信者ではなかったように覚えている。祖父も祖母も戦時中のころ徳島から上京したのだが、その出身地では結構流布されていたようだ。親類にも教徒の叔父さんや叔母さんがいた。祖父は僕が小学校2年生のときに他界したが、その葬式が、いわゆる仏教式ではなく、神道的なものだったので、一般的なものとは違うな、という程度に感じていた。高校2年の時、母が他界したときも黒住教の葬式であったが、それ以来25年近く、黒住教との関わりは、ほとんどない。
父は婿養子だった。兵庫の田舎地方では仏教が中心だったのだと思う。父方の親戚の家には仏壇が祀られていた。しかし、父はキリスト教徒だ。カトリックだったり、プロテスタントだったり、今も毎週のように地元の教会に通っているが、実はキリスト教のどのような宗派なのか、僕は知らない。父もたまに10年に1度くらい、僕に聖書を読むように薦めることもあるが、強要はしない。
そういった訳で、僕は信仰的にとても自由で、また固定観念的なものを持たないで育ってきた。
僕は20歳前後の時、世界中をバックパッカーのように旅していた。キリスト教国はもちろん、イスラム教国、ヒンドゥー教国など、さまざまな信仰のある国々を旅した。古代遺跡のようなものは世界中相当見て回った。古代遺跡はまたその当時人々が絶対視していた信仰の遺跡でもある。旅をとおしてのカルチャーショックの中で、神や幸福や真理や、次第にそういうことを僕も考えるようになった。信仰的なアイデンティティーの形成期だったように想う。
その後、事業で独立したり、結婚したり、子供ができたり、事業を整理したりで、いろいろ深く悩むこともあった。そんな折、30歳過ぎたあたりで、僕はいろいろな宗教の本部や教会に一人飛び込みで見学にいったりした時期があった。仏教系、密教系、新宗教、新興宗教、などなど。当時は怖いもの知らずで行動力もあった。もちろん宗教に関する本やサイトもたくさん読んだりしていた。同時期には心理学や精神分析、思想や哲学、倫理などについても独学で研究していた。学会や研究団体などに参加していたこともある。主に名言を紹介するこのサイトを立ち上げたのも、そんな流れの中でのことだ。
けどそれから今に至るまで、一宗一派に所属するというご縁はなかった。今でも寺社仏閣や神社などを見て回るのは好きだ。神頼みするときもあるし、それ以上に何かに感謝したいときに詣でる。そんな一般的な状況だ。
僕は基本的に団体行動が得意ではない。集団に縛られるのが好きではない。人と関わるのが嫌いな訳ではない。どちらかというと人のことを気にしすぎたり、気を使いすぎたりするタイプだ。自分で言うのも何なのだが、責任感が強すぎ、利害関係が絡むとストレスを抱えやすい。そういった自覚症状がある。宗教団体に属すことができないのも、そういったアレルギーが原因でもある。
まあ、取り留めもない告白なのだが、現状そうした信仰観、宗教観といったところだろうか。
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盲目的なるかにみえる衝動も、
言葉を行使するに当つての
理性と同一の源泉から生れたものであり、
畢竟(ひつきやう)理性の詩的発現に他ならない。
(三島由紀夫「わが世代の革命」)
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私の詩は
ただ一つの理由で私の役に立つ
すなわちそれは
闇からある種の光へ達したとする
私自身の闘争の記録である
(ディラン・トマス)
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多くの人は現状を見て、
なぜこうなのかと問う。
私は現実にない状況を夢見て、
なぜそうではないのだろうと問う。
(バーナード・ショー)
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真の詩人の真の在り方は、
夢幻状態とはおよそ隔絶したものである。
おのれの夢を描こうと欲するものは、
極度に醒めていなければならぬ。
(ポール・ヴァレリー)
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束縛があるからこそ 私は飛べるのだ
悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ
逆境があるからこそ 私は走れるのだ
涙があるからこそ 私は前に進めるのだ
(マハトマ・ガンジー「遺言詩」)
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