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名言集296

誰かに何かをしてあげたい、
何かをしてあげることができる存在になりたいという思いが、
どれだけ普遍的で切実なものなのかを
これから日本人は思い知るようになると思う

(村上龍)

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名言集295

意志に反した手段で幸福な身分になるよりも、
意志の赴くままに自由に生きたい。

(トマス・モア「ユートピア」)

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名言集294

幸福であるとは、
なんのおそれもなしに自己を眺めうる、
ということである

(W.ベンヤミン)

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名言集293

心和し、気平かなる者は、百福自ら集る。

(「菜根譚」)

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観念について

人は無意識の中にも

固定観念を形成しているものです。

私自身そのことにはじめて気づいたのは

学生時代、発展途上国やイスラム圏を訪れたときです。

一番のカルチャーショックだったのは

イスラム圏には約束の概念がないということです。

ちょっと語弊のある言い方かもしれません。

人と人との間には約束や契約が結ばれないという考え方です。

そこでは約束や契約は人と神の間で成立します。

なにか約束をしようとしたときには、

必ずその後に「シャー アラー」つまり

「アラーの神がそうさせるのであれば」という

決まり文句をつけます。

例えば「明日の6時にモスクの前で待ち合わせましょう」

と約束をしようとすると、その後に互いに

「神がそうさせるのであれば」と付け加えるのです。

一見無責任な考え方に思われ、

はじめはもちろん違和感がありましたが、

よくよく考えてみると合理的な側面もあります。

つまり、人には人の未来を束縛する権利はない

という意味を持っているのです。

そして神への信仰で結ばれている彼らにとっては

そういった考え方が相手に対するより高い信頼に

つながっていると考えられるのです。

約束や契約が基本のキリスト教的文化圏であれば

約束を守れば信用され

約束を破れば信用されない

ときとして、罪に問われ罰せられます。

しかしながら、イスラム圏ではそもそも

人と人との間の約束・契約が認められないわけですから

約束が守られた場合でも

約束が破られた場合でも

相手を信頼することに変わりはないのです。

むしろ約束が守られなかった場合

相手を心配するという慈しみの心を育みます。

思い返してみれば

我々だって、家族や親友の間柄であれば

そういった感覚をもつことでしょう。

駆け引きや損得のない結びつきなのです。

彼らは我々が他人と呼んでいる初めて出会う人々ですら

信仰で結ばれた兄弟のように思っているのでしょう。

とかく契約や計画の履行という呪縛に

囚われている私たちにとって、

こうした違った考え方があることを知ることも

大切だと思うのです。

固定観念をそうしたカルチャーショックの振るいにかけて

その上でその観念のもっている特長や

違った考え方のあることを理解した上で

自分の生活に取り入れていけばいいのではないでしょうか。

   

観念に囚われず、様々な多様性を知ることは

人間としての度量の大きさ、

優しさにつながるのです。

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自己実現

僕は人材育成や能力開発の仕事をしているため

自分自身もいろいろな研修やセミナーを受講してきました。

そこで目標となるテーマが自己実現です。

僕も自己実現について研鑽を積んで、

もちろん今でも完全な訳では全くなく、

きっと人生を通して精進していかなければならないのですが、

多くの人が自己実現という言葉を

理解していない、もしくは

誤解していることに気づきます。

すなわち、自己実現と自己顕示欲とを

混同している人をよく見かけるのです。

マズローの階層説でいうならば、

自己実現のニーズは

自我のニーズが満たされた上に現れてきます。

つまり、自我を超えた真・善・美の追求や

損得を超えた心の満ち足りた状態における

行動の中に現れるものなのです。

多くの人が自己実現に関して

例えばDo,  Have,  Be

「何がしたい」「あれが欲しい」「こうなりたい」

みたいなもので偶像化してしまいます。

これらは満たされない自我の欲求の

不足感の補完でしかありません。

自己を超越して

自己以外のものに愛しみを感じ

見返りを求めず与える

自己表現の心が芽生えたとき

自己実現の心の状態は

自ずと現れてくるものなのです。

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自分とは何か

二十歳前後の頃よく自分とは何かを考えました。

今考えればおそらく学生時代の終わりの頃であり

社会人にこれからなろうとする頃

ようやく自立心が芽生えたのかもしれません。

高度経済成長時代に親に育てられ、

親離れを始めた青春期には

日本はバブル景気の波に乗っていました。

その頃は自立心なんてものを意識しなくても

何不自由なく、きっと自分の力以上に成長でき、

豊かな未来がやってくるという

錯覚や誤解に包まれていたのでしょう。

二十歳を過ぎた頃バブルは弾け、

ようやく我に返り、魂が自立心を求めたのかもしれません。

その頃は自分の欲に任せ、

それを満たすことが自己の確立につながるものと誤解していました。

欲は未熟な欲望であるとともに

自分を形作るための意欲でもあったのです。

しかし、一つ一つの欲望を満たしていっても

それは一瞬の快楽に過ぎず、

何か空しく、満足感などは得られませんでした。

二十代も後半にはいり、

“自分”に関する安岡正篤先生の言葉に出逢いました。

「自分とは、ある者が独自に存在すると同時に、

また全体の部分として存在する。

自分の自の方は独自に存在する、

自分の分の方は全体の部分である。

この円満無碍なる一致を表現して「自分」という。」

この言葉にはっと気づきを得ました。

それまでは恥ずかしながら

自己中心的な発想しか自分にはなかったのです。

自分が全体の中の部分といった感覚は

私にはなかった。

この言葉との出逢いをきっかけに、

何か社会に対して、人に対して

自分にできることはないだろうかと

上辺ではなく心のより深い部分から

考えるようになりました。

そして宇宙の中でたった一人の自分を

心底愛おしく感じることもできたのです。

与えられた自分の人生を

大切に過ごさなければならないと想い知りました。

それと同時に親、家族、友人、同僚・・・

周囲のたくさんの人たちに

感謝の念が沸いてくるのです。

現在に至るまで

その気持ちに従った

満足のいく生活、行動が

できているわけではないけれども、

ただこの「自」と「分」からなる

「自分」というものを

体感できたことが

私の人生を通して

非常に大切な契機となったことは

間違いないでしょう。

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名言集292

誰だって、ほんとうにいいことをしたら、
いちばん幸せなんだねえ。

(宮沢賢治)

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名言集291

我々は、他人に幸福を分け与えることにより、
それと正比例して自分の幸福を増加させるのだ。

(ベンサム)

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名言集290

歩み来る人に喜びを
去り行く人に幸せを

(不詳)

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名言集289

随処作主

(森信三)

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